1/27/05 Thursday. in Osaka

胎児ら標本 国立ハンセン病6施設に114体50年以上放置 厚労省調査
もう市井の人はあらかた忘れてしまっているのかもしれないハンセン病問題なんですが、新たにいくつか報じられています。胎児の標本に加え、入所者の死後に不可解な遺体解剖も行われていたようです。この話もそうですが、ハンセン病問題を聞くにつけナチスドイツの絶滅収容所を連想するのはワタシだけでしょうか?

闇は闇からしか見えないのだ、と、映画「ショア」を観たとき知った。
絶滅収容所から奇跡的に生還したユダヤ人や元ナチス親衛隊員らが証言を重ねるごとに、戦後三十年以上を経てから撮影されたにもかかわらず、まるで闇にほどこす黒いレリーフのように、ナチスの犯罪の途方もなさがぼうっと見えてくる。手法は点描画法。なにげない証言や吐息が無数の黒いドットとなり、点の集合の濃淡によって、黒い風景が立ち上がっていく。それに息を呑む。
やがて、いささかの違和感とともに気づくのは、執拗に証言を迫るランズマン監督のかならずしも「善」ならざる装いなのである。(中略)監督は元親衛隊伍長との約束をたがえ、彼の名前を伏せず、隠し撮りまでする。証言の途中、あまりの辛さにユダヤ人が沈黙の海に潜ろうとしてもそうはさせじと食いさがる。(中略)暗い情念が闇を眺めている。悪に似たなにかが悪を透視しようとしている。
それでいい。いたしかたない、と私は思う。でなければ、過去から「いま」に引きつづき、「いま」を構成する闇の襞は見えてこないのだから。(中略)いまは、しかし、この新聞も、あの新聞も、テレビも週刊誌も、主観的「善」のオンパレードである。この国はつまらぬ善にまみれている。
善玉が善人面して悪を嘆いてみせる。嘘!悪はだから、いっかなその貌をあらわさず、闇の深みで、くっくっくと含み笑いしている。こちらも善を装い、黒光りしながら。(中略)さてまた、私もいま、闇に埋まりこんだ記憶と忘却を見てはいる。だが、きょうびのこの闇ときたら「ぬばたまの」ではない、「善」で灰色に修正されたそれなのだ。
せめては、と私は念じる。闇を浄化(クレンジング)するな。記憶を浄化するな。
辺見庸眼の探索」”闇には闇を”より引用>

長い引用をしてしまいましたが、悪のあまりのどす黒さゆえか、この問題は私たちの視程からすぐに外れてしまっているように思います。興味本位の蒸し返しで元患者の人たちをさらに傷つけるのではなく、自らの眼力で悪を透視しなければなりません。


アイスター 解雇無効確認訴訟で「ホテル閉鎖は県の責任」
コレについては論評するまでもない、本当に呆れる会社側の態度です。しかしながら司法がどっちの方を向いて判決を出しているのかまったく不可解なこんにち、熊本の判事さんには当たり前の判断をぜひお願いしたいものです。


参考ページ: 特集 ハンセン病/熊本日日新聞社